阿波藍の歴史history

阿波藍の歴史と繁栄徳島城博物館館長 根津寿夫氏

「三草」という言葉がある。

人々の生活に有用な三種の草をいい、麻と紅花、そして藍を呼んだ。
東南アジア原産の藍は、蓼科の一年草で葉や茎から染料をとった。
日本には奈良時代までに中国から輸入され、江戸時代には栽培が本格化した。

藍作の躍進は木綿と関連する。
江戸時代の初め、衣料として利用されはじめた木綿は、保温性や肌触りなどから人気となり、木綿生産は急速に拡大した。
この木綿の染料として、藍が用いられた。
だから藍作の進展は、木綿とともにあったのだ。

藍倉と帆かけ船(昭和初期) 『写真でみる徳島市百年』より 藍倉と帆かけ船(昭和初期) 『写真でみる徳島市百年』より
資料提供 徳島市史編さん室

阿波での栽培は、室町時代から行われていた。
阿波の気候と土壌が藍作に適していたことに加え、徳島藩蜂須賀家の保護によって藍作は次第に拡大していた。
藍作の行われた吉野川流域は、江戸時代には無堤防地帯で、吉野川の適度な氾濫が肥沃な客土を運び、藍作に貢献した。
藍作に必要な肥料や藍玉を運ぶのにも吉野川が使われたから、藍は吉野川の恵みを受けて成長していったことになる。

明治時代、多くの企業を設立し明治日本を創ったともいえる渋沢栄一は、利根川流域の武蔵国榛沢郡血洗島村(埼玉県深谷市)の農家に生まれた。
若き日の栄一は藍玉の製造・販売に携わっていた。
このように江戸時代には、全国各地の河川流域で藍作が行われていた。
だから阿波の藍が、江戸時代の初めからブランド化し全国を席捲していた訳ではなかった。

正徳2年(1712)に寺島良安が著した図説百科事典「和漢三才図会」には、「藍は京洛外の産を上と為し、摂州東成郡の産が最も勝れり。阿波・淡路の産はこれに次ぐ。」とある。
江戸時代中期には、阿波の藍はまだ二級品であったようだ。
後に、藍が阿波の代名詞とされるほど有名になり、藍のトップに君臨するようになるのは、生産者の弛まない品質向上の努力があったからだ。

板野郡下庄村(板野町)の犬伏久助は、染の出来を左右する水加減を苦心し努力を重ね、独自の製法を編み出した。
久助は晩年まで自ら開発した技術を惜しむことなく指導し普及させた。
その結果、藍の品質は安定し、ブランド化していった。
熱意と善意に満ちた久助に代表される藍作りに関わった人々の力が結集し、江戸時代後期、阿波藍は爆発的な人気を博していった。

「藍大市之図」西野嘉右衛門『阿波藍沿革史』より 「藍大市之図」
西野嘉右衛門『阿波藍沿革史』より

藍の繁栄を語る上で欠かせないのが藍大市だ。
辛苦して作った藍を大坂に出荷していたが、その価格は同地の問屋たちが左右していた。

10代藩主蜂須賀重喜(1738~1801)は藩政改革の一環として、城下町徳島で藍市を開き、相場の主導権を阿波商人に掌握させようとしたが、反発に遭い実現しなかった。
それから40年後の文化元年(1804)、諸国の問屋・仲買人が徳島の船場に集まり、盛大に大市が開かれることになった。
同市では、新藍品評会を実施し、優秀な藍には、瑞一・準一・天上と、その栄誉を称える賞牌板を発行した。

「賞牌板」西野金陵(株) 西野武明氏蔵 「賞牌板」西野金陵(株) 西野武明氏蔵

藍商は販売するだけでなく、藍の品質保持に努め、阿波藍のブランドを維持することに誠実だった。

大市での取引成立後、藍商は料理屋に繰り出し、問屋たちを盛大にもてなした。
そうした事情から、江戸時代末期には40軒以上も料理屋が立ち並び、徳島の町に大きな賑わいを呼び込んだのである。
市制が施行された明治22年(1889)に徳島市が誕生したが、当時の人口は全国10位だった。
その理由は、藍の経済力にあった筈だ。
阿波藍の歴史からは、江戸時代における阿波人の熱意や善意、誠実さ、そしてもてなしの心を読み取ることができる。

それらの結集が、江戸時代の日本の代表的特産物、阿波藍だった。